昭和40年代の真実
昭和30年代がブームになっているが本当の高度成長期である昭和40年代のことを書いていきます。
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浅草六区(3)
今のJRAの場外馬券上のあるところに子供の頃、
浅草新世界、という今でいうアミューズメント施設があった。
ここは元々、浅草名所の一つであるひょうたん池があったところで
それを囲む藤棚で有名だった。
それを埋め立てて造られたものだったが寿命は10年ほどで終わったため、
覚えている人は少ない。
先年、雑誌「東京人」で記事があったので興味のある人はバックナンバーを参考にして欲しい。
地下1階地上7階で地下に大浴場があり(入ったことはなかったが)、7階に
グランドキャバレーがあった、ここで何とか持っていたのだろう。
屋上に小さいゲームセンター、バッティングセンター(まだ珍しかった)、なぜかプラネタリウムがあった、
敷地面積が小さかったせいかゴテゴテと詰め込んだ印象が強かった。
そして、シンボルだったイルミネーションの貧弱な五重塔があった(これは先述の「不良少年」で見れる。)
6階のゲーセン(こんな言い方はなかったが)が我々の遊び場だった(ここも昭和38年の
「下町の太陽」という映画でみれる、長らくコンビを組む事になる山田洋次監督、ヒロイン・倍賞千恵子の
第一回作品だ、倍賞と主役の勝呂誉が初デートするシーンが映っている)
当時のゲーセンはピンボールの全盛でほとんどそれで遊んだ、一回30円だった。
ただ中は殆どのフロアがここもガラガラで閑散とした印象しか残っていない。
同級生が屋上のバッティングセンターのボールを下にめがけてノックをし問題になった(当たり前だが)
事くらいしか記憶に残っていない。
あれも浅草再建の一環だったのだろうが結論としては失敗だったという評価しかない。
しかも江戸時代からの名所だったひょうたん池を潰しただけに終わってしまったのだから
悪評しか残っていない。
馬券を買いに来るオッさんたちだって、もう覚えていないに違いない。
あれは一体、なんだったんだろう。
浅草新世界、という今でいうアミューズメント施設があった。
ここは元々、浅草名所の一つであるひょうたん池があったところで
それを囲む藤棚で有名だった。
それを埋め立てて造られたものだったが寿命は10年ほどで終わったため、
覚えている人は少ない。
先年、雑誌「東京人」で記事があったので興味のある人はバックナンバーを参考にして欲しい。
地下1階地上7階で地下に大浴場があり(入ったことはなかったが)、7階に
グランドキャバレーがあった、ここで何とか持っていたのだろう。
屋上に小さいゲームセンター、バッティングセンター(まだ珍しかった)、なぜかプラネタリウムがあった、
敷地面積が小さかったせいかゴテゴテと詰め込んだ印象が強かった。
そして、シンボルだったイルミネーションの貧弱な五重塔があった(これは先述の「不良少年」で見れる。)
6階のゲーセン(こんな言い方はなかったが)が我々の遊び場だった(ここも昭和38年の
「下町の太陽」という映画でみれる、長らくコンビを組む事になる山田洋次監督、ヒロイン・倍賞千恵子の
第一回作品だ、倍賞と主役の勝呂誉が初デートするシーンが映っている)
当時のゲーセンはピンボールの全盛でほとんどそれで遊んだ、一回30円だった。
ただ中は殆どのフロアがここもガラガラで閑散とした印象しか残っていない。
同級生が屋上のバッティングセンターのボールを下にめがけてノックをし問題になった(当たり前だが)
事くらいしか記憶に残っていない。
あれも浅草再建の一環だったのだろうが結論としては失敗だったという評価しかない。
しかも江戸時代からの名所だったひょうたん池を潰しただけに終わってしまったのだから
悪評しか残っていない。
馬券を買いに来るオッさんたちだって、もう覚えていないに違いない。
あれは一体、なんだったんだろう。
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浅草六区(2)
かつては大衆演劇の本場だった浅草もその頃は映画街だった。
封切館は全部揃っていたし、邦画は封切館だった。
二番館ではあったが洋画もやっていた。
もっとも、入りは悪く、どこもガラガラで僅かに任侠映画全盛期に在った東映だけが
一人気を吐いてはいたが。
通りは汚く、ゴミは散らかり、吸殻がいっぱい落ちてたし、
それがまたうらぶれた雰囲気を醸し出していた。
また、浅草座、ロック座、フランス座、カジノ座と4館あった(現在はロック座のみ)
とストリップ劇場があった、というより残っていたといった方が印象が分かりやすいかもしれないが、
ここも入っていなかった。
元気があったのは当時全国レベルでブームだったボーリング場だけ、だがどんな田舎でもそうだった
のだから浅草云々の話ではない。
汚く、古臭いレンガ壁の映画館が1920年代にはヨーロッパで最新(ということは世界最新)の
アール・デコ様式だったなんてことを知ったのははるか後年の事である。
今、多少人気のある花やしき遊園地も入園料がタダというだけがウリの寂しいところだったが、
たまに30円(その頃の一日の小遣い)を持ってジュークボックスでグループサウンズの歌を
聞きに言った、何回かビートルズも聞いたが特に影響を受ける事もなかった、
自分たちにとってはポール・マッカートニーやジョン・レノンより
沢田研二(ジュリー)・萩原健一(ショーケン)の方がはるかにスターだったわけだ。
寄席は大人のあるいはジイさんが行くところだったから松竹演芸場には1回しか入ったことはなく、
トリをとっていたデン助劇団(土曜日にテレビ(NET-今のテレビ朝日で中継をしていた)は、
いかにも古臭い人情喜劇をやっていたので子供が行くはずもなかった。(松竹演芸場の跡地に
建っているのが浅草ROXだ。)
当時は外人観光客もいなかったから、専ら来るのは栃木・埼玉の田舎から来る百姓ばかりで
この人たちをカッペといって俺たちは馬鹿にしていた(言葉が訛っていたからだと思う)。
遊びながら早くこんなところから出て行きたかった。
それが当時の偽らざるみんなに共通した想いのはずだった。。。
封切館は全部揃っていたし、邦画は封切館だった。
二番館ではあったが洋画もやっていた。
もっとも、入りは悪く、どこもガラガラで僅かに任侠映画全盛期に在った東映だけが
一人気を吐いてはいたが。
通りは汚く、ゴミは散らかり、吸殻がいっぱい落ちてたし、
それがまたうらぶれた雰囲気を醸し出していた。
また、浅草座、ロック座、フランス座、カジノ座と4館あった(現在はロック座のみ)
とストリップ劇場があった、というより残っていたといった方が印象が分かりやすいかもしれないが、
ここも入っていなかった。
元気があったのは当時全国レベルでブームだったボーリング場だけ、だがどんな田舎でもそうだった
のだから浅草云々の話ではない。
汚く、古臭いレンガ壁の映画館が1920年代にはヨーロッパで最新(ということは世界最新)の
アール・デコ様式だったなんてことを知ったのははるか後年の事である。
今、多少人気のある花やしき遊園地も入園料がタダというだけがウリの寂しいところだったが、
たまに30円(その頃の一日の小遣い)を持ってジュークボックスでグループサウンズの歌を
聞きに言った、何回かビートルズも聞いたが特に影響を受ける事もなかった、
自分たちにとってはポール・マッカートニーやジョン・レノンより
沢田研二(ジュリー)・萩原健一(ショーケン)の方がはるかにスターだったわけだ。
寄席は大人のあるいはジイさんが行くところだったから松竹演芸場には1回しか入ったことはなく、
トリをとっていたデン助劇団(土曜日にテレビ(NET-今のテレビ朝日で中継をしていた)は、
いかにも古臭い人情喜劇をやっていたので子供が行くはずもなかった。(松竹演芸場の跡地に
建っているのが浅草ROXだ。)
当時は外人観光客もいなかったから、専ら来るのは栃木・埼玉の田舎から来る百姓ばかりで
この人たちをカッペといって俺たちは馬鹿にしていた(言葉が訛っていたからだと思う)。
遊びながら早くこんなところから出て行きたかった。
それが当時の偽らざるみんなに共通した想いのはずだった。。。
浅草六区(1)
浅草の正式名称は浅草公園である。
明治初年に公園をつくった時上野などと並んで指定を受けた。
その時、内部を六区画に分けた、その時興行場を第六区に集めた事から
日本一の盛り場として「六区」の名は全国に鳴り響いた。
だがそれも今は昔、記憶に残っている六区は寂れた田舎の町になっていた。
昭和36年に後悔された傑作「不良少年」(羽仁進監督)で主役の少年たちが
遊んでいる場所が浅草に設定されているところを見るとこの頃までが浅草が
盛り場と認知されていた最後だろう。
彼が回想シーンの中で「エンコは良かったなあ」と言うがこの言葉は浅草公園の公園をひっくりかえして、
呼んでいるのである。こんな言葉は40年代にはもう誰も使っていなかった。
自分が通っていた小学校が此処から一番近かったため、子供の時から遊んだため記憶は
鮮明だ。
今、ここをブロードウェイ通りなどと呼んでいるセンスのなさが浅草の凋落を象徴していると思う。
とにかく、ここも汚かったことがまずは眼に浮かんでくる。。。
明治初年に公園をつくった時上野などと並んで指定を受けた。
その時、内部を六区画に分けた、その時興行場を第六区に集めた事から
日本一の盛り場として「六区」の名は全国に鳴り響いた。
だがそれも今は昔、記憶に残っている六区は寂れた田舎の町になっていた。
昭和36年に後悔された傑作「不良少年」(羽仁進監督)で主役の少年たちが
遊んでいる場所が浅草に設定されているところを見るとこの頃までが浅草が
盛り場と認知されていた最後だろう。
彼が回想シーンの中で「エンコは良かったなあ」と言うがこの言葉は浅草公園の公園をひっくりかえして、
呼んでいるのである。こんな言葉は40年代にはもう誰も使っていなかった。
自分が通っていた小学校が此処から一番近かったため、子供の時から遊んだため記憶は
鮮明だ。
今、ここをブロードウェイ通りなどと呼んでいるセンスのなさが浅草の凋落を象徴していると思う。
とにかく、ここも汚かったことがまずは眼に浮かんでくる。。。
隅田川
育ったのは浅草である。
先日、隅田川の花火大会があったが、子供の頃は中止(廃止?)されていたので
残念ながら見れるはずもなかった。
それも当たり前の話であそこは完全なドブ川だったからだ。
自分の記憶にある隅田川といえば橋を渡る時に
鼻をつまみながら、渡らなければ渡れないほどの臭気を放ちまくっていた川で
花火大会など考えた事もなかったものだ。渡る時、目も少し痛かった覚えがある。
あの近くにあった高い建物は浅草松屋だけであり、当時のどこのデパートにもあった
貧弱で安っぽい遊園地があった。その頃はそんなところでも楽しかったのである。
対岸が本所で此処も下町といわれているが、あそこは川向こうと呼ばれ
子供が行くところではなかった。
40年代はとにかく何でも汚く「公害」なんて言葉もなかったから
工場(川向こうに多かった)は何本もの煙突から
煙を吐き出していた。
それでも誰も文句一つ言わなかった。それが普通だったからだ。
道路も舗装はされていたがアスファルトではなくコンクリートによるものだったから
所々に穴が空いていて雨が降るとたちまち大きな水溜りとなった。
裏路地に入ると舗装どころではなく土の道だったから、大雨が降ると歩くのにも大変だった。
隅田川の水上バスはあったが川の臭さのため、乗る人などいなかった。
今は、人気にもなっているがあのころのことを思い出すとよく残っていたものだと思う。
浅草は今以上にさびれていた。
先日、隅田川の花火大会があったが、子供の頃は中止(廃止?)されていたので
残念ながら見れるはずもなかった。
それも当たり前の話であそこは完全なドブ川だったからだ。
自分の記憶にある隅田川といえば橋を渡る時に
鼻をつまみながら、渡らなければ渡れないほどの臭気を放ちまくっていた川で
花火大会など考えた事もなかったものだ。渡る時、目も少し痛かった覚えがある。
あの近くにあった高い建物は浅草松屋だけであり、当時のどこのデパートにもあった
貧弱で安っぽい遊園地があった。その頃はそんなところでも楽しかったのである。
対岸が本所で此処も下町といわれているが、あそこは川向こうと呼ばれ
子供が行くところではなかった。
40年代はとにかく何でも汚く「公害」なんて言葉もなかったから
工場(川向こうに多かった)は何本もの煙突から
煙を吐き出していた。
それでも誰も文句一つ言わなかった。それが普通だったからだ。
道路も舗装はされていたがアスファルトではなくコンクリートによるものだったから
所々に穴が空いていて雨が降るとたちまち大きな水溜りとなった。
裏路地に入ると舗装どころではなく土の道だったから、大雨が降ると歩くのにも大変だった。
隅田川の水上バスはあったが川の臭さのため、乗る人などいなかった。
今は、人気にもなっているがあのころのことを思い出すとよく残っていたものだと思う。
浅草は今以上にさびれていた。
貧しさと豊かさと
下町という言葉が安っぽく安易に使われているのはテレビのせいである。
ありもしないものをあるものとして描いて恥じないのは
やはり、田舎者が作っているからだろう、自分の妄想に自分が捉われているだけだ
いわゆる下町は遠く関東大震災の時に滅んだというのが歴史学の定説であり、また
その通りである。
なぜ、葛飾・柴又みたいなところが下町なのか、あそこは在(田舎)でしかない。
それを田舎者が見て下町だと思われるのは東京で生まれ育ったものにとっては
シャクの種である。
そこで昭和40年代だが、自分は昭和34年生まれなので30年代の記憶は
東京オリンピックの断片とその頃から好きだった柏鵬時代の相撲くらいしかない。
だから3丁目の夕日の時代は知らない。書物による知識は勿論持っているが実感は
分かるはずもない。
そこで40年代は、いわゆる物心がついた時代だから記憶は鮮明にあるので
それを書こうと思うに至ったわけである。
そして偶然だが育ったのは下町の本家・浅草だ。
つまり、幼少期の目線を思い出しながら浅草を題材にする。
そして、主にテレビがつくった「下町」の虚像を剥ぐことも
目的の一つである。
ありもしないものをあるものとして描いて恥じないのは
やはり、田舎者が作っているからだろう、自分の妄想に自分が捉われているだけだ
いわゆる下町は遠く関東大震災の時に滅んだというのが歴史学の定説であり、また
その通りである。
なぜ、葛飾・柴又みたいなところが下町なのか、あそこは在(田舎)でしかない。
それを田舎者が見て下町だと思われるのは東京で生まれ育ったものにとっては
シャクの種である。
そこで昭和40年代だが、自分は昭和34年生まれなので30年代の記憶は
東京オリンピックの断片とその頃から好きだった柏鵬時代の相撲くらいしかない。
だから3丁目の夕日の時代は知らない。書物による知識は勿論持っているが実感は
分かるはずもない。
そこで40年代は、いわゆる物心がついた時代だから記憶は鮮明にあるので
それを書こうと思うに至ったわけである。
そして偶然だが育ったのは下町の本家・浅草だ。
つまり、幼少期の目線を思い出しながら浅草を題材にする。
そして、主にテレビがつくった「下町」の虚像を剥ぐことも
目的の一つである。