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 浅草六区(2)

かつては大衆演劇の本場だった浅草もその頃は映画街だった。

封切館は全部揃っていたし、邦画は封切館だった。

二番館ではあったが洋画もやっていた。

もっとも、入りは悪く、どこもガラガラで僅かに任侠映画全盛期に在った東映だけが

一人気を吐いてはいたが。

通りは汚く、ゴミは散らかり、吸殻がいっぱい落ちてたし、

それがまたうらぶれた雰囲気を醸し出していた。

また、浅草座、ロック座、フランス座、カジノ座と4館あった(現在はロック座のみ)

とストリップ劇場があった、というより残っていたといった方が印象が分かりやすいかもしれないが、

ここも入っていなかった。

元気があったのは当時全国レベルでブームだったボーリング場だけ、だがどんな田舎でもそうだった

のだから浅草云々の話ではない。

汚く、古臭いレンガ壁の映画館が1920年代にはヨーロッパで最新(ということは世界最新)の

アール・デコ様式だったなんてことを知ったのははるか後年の事である。

今、多少人気のある花やしき遊園地も入園料がタダというだけがウリの寂しいところだったが、

たまに30円(その頃の一日の小遣い)を持ってジュークボックスでグループサウンズの歌を

聞きに言った、何回かビートルズも聞いたが特に影響を受ける事もなかった、

自分たちにとってはポール・マッカートニーやジョン・レノンより

沢田研二(ジュリー)・萩原健一(ショーケン)の方がはるかにスターだったわけだ。

寄席は大人のあるいはジイさんが行くところだったから松竹演芸場には1回しか入ったことはなく、

トリをとっていたデン助劇団(土曜日にテレビ(NET-今のテレビ朝日で中継をしていた)は、

いかにも古臭い人情喜劇をやっていたので子供が行くはずもなかった。(松竹演芸場の跡地に

建っているのが浅草ROXだ。)

当時は外人観光客もいなかったから、専ら来るのは栃木・埼玉の田舎から来る百姓ばかりで

この人たちをカッペといって俺たちは馬鹿にしていた(言葉が訛っていたからだと思う)。

遊びながら早くこんなところから出て行きたかった。

それが当時の偽らざるみんなに共通した想いのはずだった。。。
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